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首都衛戍憲兵隊

 

    台湾の首都防衛任務は1949年から発足した。最初は「台北省垣警備指揮部」がその責任に、憲兵第4連隊が執行部隊に当たっていたが、まもなく憲兵部隊の改編により、 憲兵第202連隊、憲兵第201連隊などに更替され調整した。1970年から首都台北の「衛戍区」がさらに総統官邸を中心とした「福山警備区」と総統府を中心とした 「博愛警備区」に分けられ、それぞれの警備区は「憲兵第二〇一指揮部」と「憲兵第二〇二指揮部」が担当するようになった。1983年より 「憲兵第二〇二指揮部」が全面的に首都警備区の司令部とされ、現在も首都防衛の主役を、近衛部隊の役割に等しい働きとして勤務している。【注1】

    「首都衛戍区」の防衛作戦は市内ゲリラ戦と想定され、 そもそも台湾警備総司令部【注2】 がその責任者であるが、 1992年に動員勘乱体制の終結(反乱平定法、要するに中国との戦争状態を終結) とともに警備総部も撤去されることにより、衛戍地域防衛の責任が憲兵司令部に任されるようになり、実行する組織は「憲兵第二〇二指揮部」である。

    憲兵隊の「首都防衛」とは都内におけるテロやクーデターの阻止、首都への侵攻反撃の二本柱を基本方針としていた。担当する「憲兵第二〇二指揮部」は「台北市憲兵隊」の所在地に位置しており、80年代の全盛期には14個の憲兵大隊を有し、それぞれは各駐屯地に戦闘訓練されたり、「台北市憲兵隊」と市内の「東区憲兵隊」、「西区憲兵隊」、「南区憲兵隊」、「北区憲兵隊」など5つの憲兵隊、「北投」「陽明山」「大直」など3つの「憲兵分隊(憲兵分遣隊)」の当番部隊として配置されたりし、首都の安全を守っている。

    現在の首都衛戍憲兵隊の任務とは、平時においての連合警衛(今は「特種勤務」 と改称した)、憲兵隊勤務、官舎官邸警備、並びに軍事施設や要塞、衛戍地域の出入り道路、橋梁、トンネルなどの防衛警備が主である。

    有事の際(近年はテロ事件を想定し訓練する場合が多い)には、憲兵司令部が国防部の指示のもとで「応変指揮部(対策本部)」を設置し、 台北市の陸軍・憲兵・警察を統合し制圧する。

【注1】経緯

◎1962年:第27回衛戍戒厳会議により、各部隊が任務上に台北を通過または駐在する場合、事前に台湾警備総司令部の許可を得なければならない。

◎1970年3月に憲兵第二〇二指揮部(台北市憲兵隊)が設立され、台北市の警備任務の実行者とされた。

◎1982年の「首都防衛保安計画」により、陸軍台北師団の防衛体制を憲兵第二〇二、二〇五、二〇六指揮部に入れ替わられた。

◎1992年に台湾警備総司令部が廃止され、その任務の後継者である台北衛戍司令部が憲兵隊に移転された。

【注2】台湾警備総司令部
38年間(1949~1987年)にわたってきた軍事戒厳令の最高実行機関である。主な任務は政権の安定であるため、外敵よりも内乱防止を優先していた。
万安演習における憲兵隊の交通規制勤務。  
総統府憲兵第211大隊
総統府警備隊  憲兵211大隊 憲兵211大隊OBの思い出アルバム(MTV)
 
市内戦が想定される憲兵隊には、地下鉄作戦訓練を行っている。

 




憲兵司令部機車連(憲兵司令部白バイ中隊)

       憲兵機車連(憲兵白バイ中隊、ちなみに台湾はオートバイを機車という)は憲兵部隊において歴史のある連隊とされている。もともとは憲兵二〇二連隊所属の 「特別機動中隊【注】」のオートバイ小隊であるが、1970年に憲兵司令部により再編成され、司令部の直轄部隊になった。 主な任務は国の重要記念日式典や外賓訪問の儀仗業務であるが、現時点では毎月の憲兵訓練センターの卒業式と毎年の三軍五校の卒業式典、年に二回 (春と秋)の戦没将兵慰霊合祀祭(現在は一般国民の公務死も含む)などのパレードの先頭勤務が恒例化されてきた。

 

       以上の儀仗業務以外に、一般的な憲兵隊勤務の能力も有している。要請があれば、治安維持、軍事検問、基地警備、地方憲兵隊の勤務支援もしばしば行われている。

 

       また、戦時において中隊の憲兵白バイが迷彩や偽装を施し、 首都衛戍司令部の偵察部隊として運用される。

歴代の憲兵白バイ

【注】憲兵特別機動中隊とは、憲兵装甲車小隊と憲兵オートバイ小隊からなり、台湾南北の憲兵第202、201連隊それぞれ一中隊が設置され、 蒋介石が各地へ視察する際に、道路警備は各地の憲兵隊が担当し、この部隊は「官邸特別警戒区」の一環となされていた。1968年に「連合警衛安全指揮部」 が設立した後に廃止された。

憲兵白バイの教習風景。

 



憲兵装甲大隊

   憲兵装甲大隊は1987年戒厳令の解除により、衛戍地域の重大反乱を防ぐために急遽に設立された対策部隊であるが、 現在では中国軍の空挺襲撃対策の緊急展開部隊として再編成された。平時には一般警備勤務と、各種要請に応じる特別警備勤務の支援も兼ねている。

   憲兵部隊のなかでも、憲兵装甲大隊の訓練の厳しさとそれに応じる高い戦闘力が非常に有名である。福西駐屯地には広い演習場と訓練施設が揃っているため、 すべての教育訓練を平日から徹底的に実施することが可能である。新兵が憲兵訓練センターの訓練に合格しここに配属されても、まず射手、通信手、 装甲車運転手に分けられる。そしてさらに専門的な兵科教育が実施され、終了検定に合格しなければ正式の装甲大隊隊員として認められない。これ以外にも、 一年半ごとに部隊ごとでより実戦に近い高度な戦闘訓練を行っている。勿論この訓練にも検閲制度が実施されている (実は全ての憲兵部隊もこのような訓練システムがある)。そのために平日の勤務以外の時間もこの検閲をクリアーできるよう将兵全員が体力や戦闘技能を積み上げて 部隊のレベルを上げている。

   憲兵装甲大隊は憲兵部隊のなかに唯一V150装輪装甲車が装備されている部隊であるために、暴動の鎮圧、 空挺襲撃対策などの機動力や戦力も憲兵部隊の頂点に位置付けられるといわれている。平日には一般的な憲兵勤務も担当しているが、 戦時には首都防衛作戦の不可欠な役割を有している。

   なお、2005年から第二の憲兵装甲大隊が成立され、2大隊とも台北市内に配置している。

 



憲兵砲兵大隊

   2005年4月に、憲兵隊は台北中枢を防衛するため、ふたつの憲兵大隊を「砲兵大隊」と第二の「装甲大隊」に改編した。主な防衛任務は台北の北玄関であり、台北市北部の基隆河北岸地域を駐屯地とし、 中国軍が台北進撃する際の対策部隊とされている。

   軍の情報筋によると、中国軍が台湾を侵攻した場合、首都台北について可能性の高い3つの作戦進路が想定されている。ひとつは空中からの空挺による台北 松山空港の襲撃をし、一気に中央政府の中枢部をマヒさせる。ひとつは海上から東北海岸の基隆市に上陸し、高速道路を沿って30分以内に首都台北に着き、 もうひとつは西北の淡水河を遡って台北にたどり着くなどが考えられる。その攻撃目標は台北松山空港と大直要塞であることを明らかに示している。この際、 台北との連絡道路のほとんどが壊滅状態になる可能性が高く、周辺の味方部隊が台北市内部隊と合流するもきわめて困難であり、台北市内戦には増援なしの死守戦 と思われる。

   このため、台北防衛の責任者である憲兵司令部は、憲兵隊の最優先任務を首都ゲリラ戦に変更し、陸軍司令部、海軍司令部、国防大学、軍事情報局、蒋介石の「慈湖御陵」など憲兵部隊の警備勤務をすべて解除した。また全国各地の地方憲兵隊を縮小し、 憲兵隊全軍に五分の三の兵力を台北市内に集中配置した。

   憲兵砲兵大隊はこの政策を背景にして編成され、当初は市街戦に適した120ミリ迫撃砲中隊、FIM-92スティンガー地対空ミサイル中隊、SMAW対装甲ミサイル中隊からなる予定であるが、 後二者は国会において予算案が否決され、結局今は迫撃砲大隊となった。

   そして憲兵砲兵大隊は2つの憲兵装甲部隊とともに1600名余りの高い機動力と重火器をもつ憲兵部隊が台北市街戦の火力打撃の主力としている。



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● 首都防衛の変容   ● 憲兵隊の役割変化 

 
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